2009年12月17日

インダス・南アジア・インド

インダス川河畔でインダス文明が興ったのは、紀元前2600年頃のことと考えられている。インダス川流域では、毎年6月 - 7月の時期にモンスーンの到来によって雨季が訪れる。雨季の降水はインダス川の氾濫を起こしたが、氾濫原には肥沃な土壌と農耕用水の水源となる湿地が残された。インダス文明期には、洪水期前になると川に沿って低い土手が作られた。この土手は洪水を防ぐものではなく、洪水によってもたらされた肥沃な土壌を耕地に貯め込むためのものだった。そのため、メソポタミアやエジプトのように潅漑が発達することはなく、氾濫農耕に依存していたと考えられている。インダス文明の農耕は洪水を前提としていたので、水害を防ぐ治水はほとんど行われていなかった。

その後、インド亜大陸では、ガンジス川流域を中心として潅漑水利の発達が見られたものの、水害を防ぐという意味での治水はほぼ存在してこなかった。インドにおける治水の始まりは、1947年のインド独立以降のことである。1948年に開始したダモーダル河谷総合開発事業がインドの治水の嚆矢であり、その後、1954年のインド大洪水を受けて「全国治水計画」が策定されるに至った。全国治水計画のもとで1万kmを超える堤防が建設されたほか、各州ごとに州治水政策に基づいた治水対策が行われているが、まだ十分な水準に達していないとされている。
エネルギー
人間工学
ボクシング
血液学
流鏑馬
カバディ
人形劇
株式
エックス線
アクセス
ヨーロッパは、安定した地質の構造平野が広がり、河川は構造平野を掘り下げるように流れるため、洪水時の氾濫原となる沖積平野はあまり広く形成されていない。台風やモンスーンによる多量の降水もないので、水害が発生する頻度も、例えば東アジア地域と比較すると、高くはない。

ヨーロッパで治水が特に発達したのはオランダである。オランダは、ライン川、マース川、スヘルデ川の河口デルタに立地し、かつ海面を干拓して土地を拡げたため、国土の大部分が海面と同等か、それより低い。オランダでは水害を防ぐため、河床を浚渫して河川流量を確保し、河川・海岸沿いには堤防をはりめぐらせ、さらに高潮対策として河口に堰を築くという、近代的な治水技術が早くから成立した。

2009年12月01日

宝暦3年(1753年)8月

宝暦3年(1753年)8月、江戸の八丁堀本多家に、日暮れから諸道具を運び込み、九ツ前、提灯数十ばかりに前後数十人の守護を連れた鋲打ちの女乗物が、本多家の門をくぐった。5、6千石の婚礼の体であったが、本多家の人は誰も知らなかったという。このような「キツネノヨメイリ」には必ずにわか雨が降るとされるが、やはりこれも降雨を司る農業神の性質であろう。

しかし、農耕信仰がすたれるにつれ、キツネが狡猾者として登場することも多くなり、『今昔物語』でも「高陽川の狐、女と変じて馬の尻に乗りし語」では、夕に若い女に化けたキツネが、馬に乗った人に声をかけて乗せてもらうが、4、5町ばかり行ったところでキツネになって「こうこう」と鳴いたとある。『行脚怪談袋』には、僧が団子を喰おうとするキツネを杖で打ったら、翌日そのキツネが大名行列に化けて仕返しをしたという話がある。ほかにも『太平百物語』に、京都伏見の穀物問屋へ女がやって来て、桶を預けていった。ところがその桶の中から、大坂真田山のキツネと名乗る大入道が現われて、この家の者が日ごろ自分の住まいに小便をして汚すと苦情を述べた。そこで主人は入道に詫びて、3日間赤飯と油ものをキツネのすみかの穴に供えて許しを乞うたという。
ドリーム☆アゲイン
はじめの一歩
ビジネス英語レッスン!
フルーツバスケット
ホワイトテリア
モーニングムーン
りんりん健康ビューティー
葵のお仕事
永遠の旅の中
果てなき想い

キツネは女に化けることが多いとされるが、これはキツネが陰陽五行思想において土行、特に八卦では「艮」に割り当てられることから陰気の獣であるとされ、後世になって「狐は女に化けて陽の存在である男に近づくものである」という認識が定着してしまったためと考えられる。関西・中国地方で有名なのは「おさん狐」である。このキツネは美女に化けて男女の仲を裂きにくる妖怪で、嫉妬深く男が手を焼くという話が多数残っている。キツネが化けた女はよく見ると、闇夜でも着物の柄がはっきり見えるといわれていた。女の他、男はもちろん、月や日、妖怪、石、木、電柱、灯籠、馬やネコ、家屋、汽車に化けるほか、雨(狐の嫁入り)や雪のような自然現象を起こす等、実にバリエーションに富んでいる。

2009年11月27日

キャビテーション現象による騒音を抑えるため

キャビテーション現象による騒音を抑えるため、近年の潜水艦ではハイスキュード・プロペラと呼ばれる「鎌状でひねりの入った」特殊形状のものが使用される。このプロペラは通常の型より推進効率は低下するが、静粛性は向上できるとされている。キャビテーションを大幅に低減させるには、ポンプジェット(水流噴射推進)を用いるべきだが、これは深海域では海水圧に噴流能力が勝てず、推進効率も著しく低下する(一般プロペラの推進効率65%に対して僅か45%程度)ので、出力に余裕がある原子力潜水艦といえど通常推進には使い辛い。
エックス線
アクセス
ありの仕事
ウエストハイランド
おじさん大雅の夢
お玉じゃくし
キャトルドッグ
ケンダマン
サボテン
スーパーロボット

究極的には、良導体である海水に磁界を掛けて推進する『電磁推進』方式に勝る物はないが、潜水艦の利点である「遍在性」をその強力な発生磁界が損なうのと、核動力AIP以外では超電導磁石への供給電力を賄えないため、今後も実戦配備される可能性は乏しいだろう。

潜水艦は、登場以来長らくディーゼル機関と電動機を併用していた。この方式には直結式とディーゼル・エレクトリック方式がある。直結式はディーゼル機関、電動機(発電機兼用)、スクリューを直結したもので、水上航行時にはディーゼル機関を、水中航行時は電動機で航行する。ディーゼル・エレクトリック方式は、水上航行時はディーゼル機関で発電機を回してその電力で電動機を動かし、水中航行時は蓄電池の電力で電動機を動かす。前者は水上航行時に高速が出せるが充電効率が低かった。そのため、潜水艦の水中航行が主流となった第二次大戦後には、充電効率に優れる後者が主流となった。

第二次大戦後は、原子力機関の登場により潜水艦の水中速力は大きく上がり、可潜時間は数ヶ月近くにまで増えた。原子力機関は有り余る出力を生かして海水を電気分解し、艦内へ常時新鮮な酸素を提供する。このため、原子力潜水艦は「世界一空気がきれい」と言われるほど艦内は快適である。しかし、超微量の放射線漏れは絶えずあり(特に艦外)、米軍の乗員は放射線被爆線量測定バッジをつける。

2009年11月13日

家督争いから尾張統一

当時、尾張国は守護大名の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡の守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していた。しかし、信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにもかかわらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大していった。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟織田信行(信勝)の家督相続を支持して信長と敵対し、信長謀殺計画を企てた。しかし、信友により傀儡にされていた尾張国守護斯波義統が、その計画を事前に信長に密告した。これに激怒した信友は、義統の嫡男斯波義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。

このため、義銀が信長を頼って落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主織田信光と協力し、信友を主君義統を殺した謀反人として殺害する。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めた。織田氏の庶家であった信長が名実ともに織田氏の頭領となった。叔父の信光も死亡しているが、死因は不明である。
せの付く言葉
四季の祭り
コーヒーで一息
柴犬について
番茶百科
サンタはどこ
蘭の世界紀行
おいしいお菓子
スノーボード
狂言

弘治2年(1556年)4月、義父斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)。信長も道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り、勢いに乗った義龍軍に苦戦、道三敗死の知らせにより退却した。

こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞・林通具・柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた信長の同母弟信勝を擁立しようとした。これに対して信長には森可成・佐久間盛重・佐久間信盛らが味方し、両派は対立する。

2009年11月02日

無線工学の勃興

ラジオの開発においては、多数の科学者や発明家が無線技術や電子工学に貢献している。1881年、ハインリヒ・ヘルツは電磁波の発生と検出を行う電気装置を製作して極超短波の実験を行った。1895年、ニコラ・テスラはニューヨーク市内の自身の実験室から発信した電波をウェストポイントで受信する実験に成功した(距離は80.4km)。1897年、フェルディナント・ブラウンはオシロスコープの一部としてブラウン管を発明し、これが後のテレビを生むことになる。ジョン・フレミングは1904年、最初の真空管(二極管)を発明した。2年後、Robert von Lieben とリー・ド・フォレストがそれぞれ独自に増幅効果のある三極管を発明した。

1895年、グリエルモ・マルコーニはヘルツの無線技術をさらに進展させた。まず彼は約1.5マイルの距離での無線信号の送受信実験を行った。1901年12月、マルコーニは地表面の曲率に影響されない無線電波を送信し、大西洋を横断する無線通信に成功した(距離は約3400km)。
電車男
冬を待つ季節
桃と花子
透明人間
二十面相
日本一の息子
猫の足
白い秋桜
隼の生活
美月はおギャル

1920年、アルバート・ハルがマグネトロンを開発し、1946年のパーシー・スペンサーによる電子レンジ開発の元となった。1934年、イギリス軍はレーダー(これもマグネトロンを応用したもの)の開発に着手し、1936年8月にはBawdseyで世界初のレーダー基地の運用が始まった。

1941年、コンラート・ツーゼは世界初のプログラム可能な完全自動計算機Z3を公開した[16]。1946年にはジョン・エッカートとジョン・モークリーのENIACが続き、コンピュータ時代が始まった。

2009年10月23日

一般の未成年養子に関する注意点

一般の未成年養子に関する注意点
特別養子には、日本人の配偶者等の在留資格が与えられる。
6歳未満の普通養子には、定住者の在留資格が与えられる。
それ以上の年齢では、人道上配慮すべき特段の事情がある場合は法務大臣から個別に定住者の在留資格が与えられる可能性もあるが、そうでなければ、通常の外国人と同様に何らかの在留資格が別途必要になる。
風水
アメリカンフットボール
衛星放送
アスペルガー症候群
闘牛
映画音楽
哺乳類
漢方薬
惑星
自動車工学
スクエアダンス
融資
東海地方
夜景
カロリー
真菌学
スケートボード
色素性乾皮症
ルームシェア
超能力
連れ子に関する注意点
日本人が、外国人配偶者の外国籍の子供と養子縁組する場合(養子縁組しない場合でも)、その外国人配偶者に扶養されている未成年の未婚の実子は、原則として定住者の在留資格が与えられる。成年後や独立生計の養子が日本に居住するには、通常の外国人と同様、何らかの在留資格が別途必要になる。
外国人が、日本人配偶者の日本国籍の子供と養子縁組する場合は、養親の本国法に基づく。
成年養子に関する注意点
留学生や技術研修などで来日した外国人が、日本での在留期間の延長や事業承継者となることを目的として、日本人の養子となることを希望する例が見られる。しかし、成年養子には帰化や在留資格に関する特段の優遇措置は与えられておらず、滞在の便法としての利用は無意味である。

2009年06月22日

産業革命(さんぎょうかくめい、英: Industrial Revolution)

産業革命(さんぎょうかくめい、英: Industrial Revolution)とは、18世紀から19世紀にかけて起こった工場制機械工業の導入による産業の変革と、それに伴う社会構造の変革のことである。市民革命とともに近代の幕開けを告げる出来事とされるが、近年では産業革命に代わり「工業化」という見方をする事が多い。ただしイギリスの事例については、従来の社会的変化に加え、最初の工業化であることと世界史的意義を踏まえ、現在でも産業革命という用語が用いられている

「産業革命」という言葉が初めて使われたのは1837年、ルイ・オーギュスト・ブランキによってである。その後、1844年にフリードリヒ・エンゲルスによって広まり、アーノルド・トインビーが著作の中で使用したことから学術用語として定着した。もともとは1760年代から1830年代にかけてイギリスで起こった「最初の」産業革命を指した言葉だが、いわゆる発展段階論において市民革命と並んで、近代とそれ以前を分かつ分水嶺とされたため、イギリスを皮切りにベルギー、フランス、アメリカ、ドイツ、日本といった風に順次各国でも産業革命が起こったとされた。

イギリスで産業革命が始まった要因として、原料供給地および市場としての植民地の存在、清教徒革命・名誉革命による社会・経済的な環境整備、蓄積された資本ないし資金調達が容易な環境、および農業革命によってもたらされた労働力、などが挙げられる。これらの条件の多くはフランスでもそれほど変わることはなかったが、唯一決定的に違ったのが、植民地の有無である。
ブレイクダンス
大気化学
ヒッチハイク
投扇興
ラクロス
ダイエット
ロデオ
フードテーマパーク
ホッケー
ルームシェア
日本の演劇
熊本の湯めぐり
食の文化
お寺案内
骨の調べ
地震のおこり
筋肉事典
湯・香川
アロマ広場
チョコレート戦争

イギリス産業革命は1760年代に始まるとされるが、七年戦争が終結し、アメリカ、インドにおけるイギリスのフランスに対する優位が決定づけられたのは1763年のパリ条約によってである。植民地自体は以前から存在していたので、1763年の時点でイギリスが市場・原料供給地を得た、というよりも、フランスが産業革命の先陣を切るために必要な市場・原料供給地を失ったというべきであろう。いずれにせよ、イギリスはライバルであるフランスに先んじて産業革命を開始し、フランスに限らず一体化しつつあった地球上の全ての国々に対して有利な位置を占めることとなった。言い換えるならば、七年戦争の勝利によって、イギリスは近代世界システムにおけるヘゲモニー国家の地位を決定づけたのである[1]。

イギリスの産業革命は1760年代から1830年代までという比較的長い期間に渡って漸進的に進行した。またイギリスに限らず西ヨーロッパ地域では「産業革命」に先行してプロト工業化と呼ばれる技術革新が存在した。そのため、そもそも「産業革命」のような長期的かつ緩慢で、唯一でもない進歩が「革命」と呼ぶに値するか、という議論もある。

初期の軽工業中心のころを「第一次産業革命」、電気・石油による重化学工業への移行後を「第二次産業革命」、原子力エネルギーを利用する現代を「第三次産業革命」と呼ぶ立場があるが、このような技術形態に重きを置く産業革命の理解からは、「産業革命不在説」に対する有力な反論は出にくい。そのため、現在では産業の変化とそれに伴う社会の変化については、「革命」というほど急激な変化ではないという観点から、「工業化」という言葉で表されることが多い。ただし、イギリスの事例については依然として「産業革命」という言葉も使われている。

イギリスについて目を向ければ、労働者階級の成立、中流階級の成長、および地主貴族階級の成熟による三階級構造の確立や消費社会の定着など、1760年代から1830年代という「産業革命期」を挟んで大きな社会的変化を見出すことができる。また世界史に目を向ければ、最初の工業化であるイギリス産業革命を期に、奴隷貿易を含む貿易の拡大や、現在にも繋がる国際分業体制の確立といった地球規模での大変化が始まったとも言える。

この世界規模での影響(負の側面も含めて)は、先行するプロト工業化などではなかったものである。そのため、産業革命は単なる技術上の変化としてではなく、また一国単位の出来事としてでもなく、より広い見地から理解される必要がある

2009年06月05日

北見国(きたみのくに)は、明治維新のころにおかれた

北見国(きたみのくに)は、明治維新のころにおかれた日本の地方区分の国の一つである。「北見」の名は、過去のこの地域の通称「北海岸」と快晴の日に樺太が「見」える事から、一字ずつをとって松浦武四郎が命名したもの。道北から道東にかけて位置し、領域は現在の北海道網走支庁及び宗谷支庁のうち豊富町をのぞいた部分にあたる。設置当初は釧路国の網尻郡(現在の網走支庁のうち美幌町と津別町にあたる部分と大空町の一部)は含まれなかった。

飛鳥時代の斉明天皇のころ阿倍比羅夫が道南で戦った粛慎は、当時樺太や北見国域を中心に栄えたオホーツク文化圏に属する人たちとの説がある。代表的な遺跡であるモヨロ貝塚の他、常呂遺跡も存在する。オホーツク文化は平安時代前期ころ道北にまで進出した擦文文化によって樺太と切り離されたのち、北見国域中部以南では擦文文化の影響を強く受けたトビニタイ文化へと移行し鎌倉時代ころまで続いた。

鎌倉時代後期にさしかかるころ、当時は仏教の布教が盛んで北海道にも僧がわたったと言われており、永仁年間に北見国域から日蓮宗の僧・日持上人が布教のため樺太に渡っている。その二年後には津軽の蝦夷管領・安東氏が骨嵬(樺太アイヌ)を率いて元と戦っている。

江戸時代に入ると、松前藩によって開かれた場所と呼ばれる知行地で松前藩家臣と蝦夷(アイヌ)との交易が行われた。場所に関する制度の詳細は商場(場所)知行制および場所請負制の項を参照せよ。場所と後に置かれた郡の対応は下記のとおりである。

リイシリ場所・・・後の利尻郡、礼文郡
ソウヤ場所・・・後の宗谷郡、枝幸郡
モンベツ場所・・・後の紋別郡、常呂郡
アバシリ場所・・・後の網走郡
シャリ場所・・・後の斜里郡
※この他、樺太にもシラヌシ場所などが開かれていた。
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江戸時代後期になると北見国域は西蝦夷地に属した。文化3年9月、ロシアが樺太の久春古丹(後の大泊町楠渓)に上陸して運上屋を攻撃・略奪・放火する事件が発生。翌文化4年にはロシアによる樺太の留多加と利尻島を攻撃・略奪、礼文島近海の日本船を襲撃する事件が起き、商船が焼き払われ島民が拉致されるなどの被害が出た。これらロシアが攻撃・略奪・放火する一連の事件(文化露寇、フヴォストフ事件)の発生など、南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備えるため蝦夷地は天領(幕府直轄地)とされ、会津藩が利尻・宗谷・樺太の警固を命じられる。文化5年には松田伝十郎と間宮林蔵が樺太探検、間宮海峡を発見し樺太が島であることを確認。松田伝十郎が樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の国境標を建てている。その翌年は間宮林蔵が単身で渡樺、間宮海峡対岸の黒竜江下流を調査した。文化6年それまで西蝦夷地の一部であった樺太の呼称を北蝦夷地とし、この年以降樺太(シラヌシ、ルウタカ、クシュンコタン)と北見国域(ソウヤ、シャリ)は津軽藩が出張陣屋を築き警固に当たった。この時、シャリで越冬時に多数犠牲者を出した津軽藩士殉難事件がおこっている。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり今度は秋田藩が枝幸郡域以北のソウヤ及び樺太のシラヌシとクシュンコタンに出張陣屋を築き、会津藩が紋別郡域以南の警固を行った。また、安政3?4年ころ知床半島(斜里郡域)にある硫黄山が噴火している。慶応元年岡本監輔が、樺太最北端ガオト岬(北緯55度)に、「大日本領」と記した標柱を建てる。

その他、北見温泉や温根湯温泉などが古くから知られている。

明治2年(1869年)8月15日に北見国が置かれた。
明治14年(1881年)7月に、釧路国の網尻郡を北見国の網走郡に合して編入した。
明治15年(1882年)2月8日、廃使置県にともない利尻・礼文・宗谷・枝幸の4郡は札幌県の、紋別・常呂・網走・斜里の4郡は根室県の所管となる。
なお、樺太は明治初頭に喪失する前も日露戦争後の南樺太主権回復後(?1945年)も、北見国や千島国他に編入されていない。

神社・一宮 [編集]
享保年間創建の北見冨士神社、天明5年創建の北門神社、寛政8年創建の斜里神社などがある。その他、渡樺する者が参拝奉納した宗谷郡の厳島神社は天明2年にはすでに存在し樺太・大泊にも分社があった。

利尻郡 北見冨士神社(利尻郡利尻町)
宗谷郡 宗谷大神宮  (現北門神社、稚内市)
宗谷郡 厳島神社   (稚内市)
網走郡 網走神社   (網走市)
斜里郡 斜里神社   (斜里郡斜里町)
網走神社は、文化9年(1812年)、漁場の鎮守とするため近江出身の藤野四郎兵衛により網走川の河口に作られた弁財天を祀る小祠が起源と伝わり、北見国一宮と称されている。

2009年05月01日

九条幸家

九条幸家(くじょう ゆきいえ、天正14年2月9日(1586年4月7日) - 寛文5年8月21日(1665年9月29日))は、江戸時代初期の公家。藤原氏摂関家九条流の九条家の当主。関白・左大臣に昇った。はじめは忠栄(ただひで)を名乗る。また一字名として「匀」とも。

天正14年(1586年)、九条兼孝の子として生まれる。母は権大納言高倉永家の娘熙子。天正18年(1590年)元服とともに正五位下左近衛少将に叙任され、以後も昇進を続ける。

正室には羽柴秀勝の娘(母はお江の方)・完子(さだこ)を娶り、武家とも良好な関係を持つ(嫡子道房を産む)。特に妻の母お江が徳川秀忠の正室として再嫁し(崇源院)たことから、将軍家御台所の婿となり、朝廷と幕府の仲介役としても貴重な存在となる。徳川幕府の後援もあり、慶長13年(1608年)には氏長者となり関白職に任ぜられた。同18年にいったん辞職するも、元和5年(1619年)再び関白となる。寛永8年(1631年)に名を「幸家」と改めた。寛文5年(1665年)薨去。享年80。法名、惟忖院。

子は九条道房のほか、二条康道、松殿家を再興させた松殿道基(道昭)、栄厳、本願寺光円室、本願寺光従室らがいる。

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1590年(天正18年) 正五位下左近衛少将
1591年(天正19年) 従四位下左近衛中将
1593年(文禄2年) 従四位上
1599年(慶長4年) 従三位権中納言
1601年(慶長6年) 正三位
1602年(慶長7年) 従二位
1604年(慶長9年) 正二位権大納言
1606年(慶長11年) 左近衛大将
1607年(慶長12年) 右大臣
1608年(慶長13年) 左大将を辞す、氏長者・関白
1612年(慶長17年) 左大臣
1613年(慶長18年) 関白を辞す
1614年(慶長19年) 従一位
1619年(元和5年) 関白再任
1623年(元和9年) 関白を辞す

2009年04月17日

カルカルの戦い

カルカルの戦い(Battle of Karkar(or Qarqar))は、紀元前853年にシャルマネセル3世率いるアッシリア軍とシリア諸国の同盟軍との間で戦われた。古代オリエント史上有名な戦いの1つであり、この戦いの結果アッシリア軍は撃退され、その西方への拡大は一時頓挫した。

参戦した諸国 [編集]
シャルマネセル3世統治下においてアッシリアは急激な領土拡大を続けていた。シリア地方はレバノン杉をはじめ重要物資の供給地であったほか、エジプトに到る通商路が通っていたため、たびたび大国の争奪戦が繰り広げられている土地であった。アッシリアがシリア近辺まで領土を拡大すると、それまで相互に争っていたシリア地方の諸王国は同盟を結んでこれに対抗した。

アッシリア側の史料には「ハッティ(シリア)と海岸の12人の王」としてその同盟参加者が記録されている。参加者は以下の通り。

ダマスカス王ハダドエゼルが率いる戦車1,200両、騎兵1,200騎、歩兵20,000人。
ハマテ王イルフレニが率いる戦車700両、騎兵700騎、歩兵10,000人。
イスラエル王アハブが送った戦車2,000両、歩兵10,000人。
キズワトナ軍、歩兵500人。
ムスリ[1]軍、歩兵1,000人。
アルキ軍、戦車10両、歩兵10,000人。
アルヴァド王マタンバールが送った歩兵200人。
ウスヌ軍、歩兵200人
シアヌ王アドニバールが送った戦車30両、歩兵数千人。
アラビア王ギンディブが送ったラクダ騎兵1,000騎。
ベトルホブ[2]王バアシャーが送った戦車30両、歩兵数百人。

紀元前853年に西方遠征を開始したシャルマネセル3世はアレッポを経由してカルカル市を略奪し、オロンテス川そばでこの同盟軍と遭遇した。アッシリア側の記録によればシャルマネセル3世は無数の戦車と14,000人の兵士を倒して勝利したと記録されている。だが、実際にはこの戦いの後にアッシリアがシリア地方を征服した形跡は無く、またこの戦いの後も繰り返しシリア地方への遠征を行っている事から、この戦いでアッシリアが勝利を得たとは考えられていない。

この戦いの結果、アッシリアの西方への領土拡大は停止した。そして当座の脅威から逃れたシリア諸国の同盟は崩れ、紀元前852年にはダマスカスとイスラエルの間で争いが生じ、その戦いでイスラエル王アハブが戦死する事となる。

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